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佃島の盆踊りの歴史について
佃島の盆踊りの起源について、佃島に古くから言い伝えられていたのは、以下のようなものです。
天正年間、石山本願寺と織田信長との戦で本願寺が勝った時、本願寺側の軍師鈴木飛騨守(鈴木孫市)が勝ち戦を喜んで片手に槍を持ち、片手に軍扇をかざし、戦で傷ついた脚を引き摺りながら舞を舞いました。その舞姿を真似て皆で脚を引き摺りながら踊りを踊って勝ち戦を喜ぶと共に、死者への供養としました。この後、孟蘭盆になるとこの踊りを踊って、先祖の供養とする様になったという事です。
その後、この盆踊りは、徳川家康に招かれて江戸に来た漁師によって、佃島に伝えられました。現代のように納涼盆踊りのなかった戦前、盆踊りが珍しく月島や湊町等からも見物人が来て、脚を引き摺って踊ることから見物人の間で、佃のびっこ踊りと言われていたそうです。
この故事は佃島以外の士地にも伝わっています。 NHKの大河ドラマ「国盗り物語」の中で、これと全く同じ史話が描かれていて、和歌山には「雑賀孫市のちんば踊り」が残っているというエピソードがドラマの中で紹介されていました。
以前、盆踊りの時、説教所の洞鶏さんが、本願寺の輪番さんを案内してきて、テントの中の人達に紹介したところ、「誰も挨拶をする人がいなかった、あんなに困った事は無かった」と言っていたので、保存会の中心的な人物と思しきN氏にこの事を告げたところ「佃と本願寺、何の関係があんだよ?関係なんか無いだろ」と言われ、唖然としたことがありました。
ところが平成29年、保存会が出したパンフレットには「築地本願寺が完成したのを機に盆踊りが始められた」とありました(誰の作り話か?)。このように、保存会がいう盆踊りの起源と佃島で古くから言い伝えられて来た起源では、時代においても、謂れにおいても全く異なるもので、会が主催する盆踊りは佃島とは縁も所縁も無いものです。築地本願寺が完成した時には、既に佃島では盆踊りが行われていました。保存会のパンフレットが、いつの間にか佃島の盆踊りの中に入り込んできて、佃島の盆踊り唄を使い、踊りも踏襲したので、紛らわしくなってしまったような訳ですから、佃一丁目以外の場所で、佃島という名称を使わずに盆踊りを行うのが、妥当かと思います。
保存会の代表の山田氏は、裁判所に提出した書面の中で、「たまたま佃一丁目で開催しているだけ」と述べているのですから、他所で好きな時にやれば佃の住人、佃の門徒との間で、無用な軌蝶を生じる事はありません。
現に、昨年は、佃がお盆でもない時、盆踊りと称して踊っていたのですから……。明治政府が新暦を採用して以来、佃島は新暦の7月13、14、15日がお盆で、月遅れでお盆をやる風習はありません。保存会は自ら、自らの盆踊りが佃の盆踊りではないことを(佃がお盆でない時に行なうことによって)実証したのですから、佃一丁目以外の士地で行うのが適当であります。天正年代(1570年代)、戦の最中、大阪の地で生まれ、発祥の地で消滅した盆踊りが、発祥の地から遠く離れた東京の佃で四百数十年も経て伝承されていたことは、意義深く、歴史的あるいは文化的に見て佃を特徴づけるものと考えます。
このようなことを鑑み、この盆踊りを伝承していくことは、非常に大切な事であると考えます。ところが最近四十数年、佃島盆踊保存会によってこの歴史が消し去られ、伝承が途絶えようとしています。
四百数十年継承されてきた盆踊りと言い伝えを守らなければなりません。